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年表(保谷版)

ページ番号 118-272-145

最終更新日 2006年1月23日

 明治22年、上保谷新田、上保谷、下保谷の3か村が合併し、保谷村となり、現在とほぼ同じ区画をもつ農村として位置づけられ、昭和15年11月10日に人口15,200人で町制を施行しました。同20年から都営住宅の建設が始まり人口は徐々に増加しました。その後、日本住宅公団(現 住宅、都市整備公団)によって昭和33年柳沢、東伏見団地、翌34年にはひばりが丘団地が建設されたことにより、人口は急激に増加し、同35年1月1日には43,678人となりました。その後も民間の宅地造成が行われ、昭和42年1月1日に人口77,169人で市制が施行され、かつての農村地域であった保谷市は、住宅都市として定着しました。しかし、昭和46年以降、人口の増加は鈍化傾向を示し、平成13年1月1日の人口は101,914人です。
 明治13年頃
 保谷市は、かつて江戸時代、幕府の開墾対策の一環として享保7年(1722年)に、新田開発(武蔵野新田82か村)が命じられ、元文元年(1736年)には大岡越前守が上保谷新田、下保谷新田の検地を行いました。
 明治22年には、上保谷新田、上保谷、下保谷の3か村が合併し保谷村となり、現在とほぼ同じ区画を持つ農村として位置づけられました。その後、明治40年には東京府北多摩郡に属することになり、当時の人口は、3,405人(450世帯)でした。

写真:保谷駅前(大正7年頃)

保谷駅前(大正7年頃)

 昭和2年頃
 大正時代以降になると、現在の市の北部を結ぶ西武池袋線(武蔵野鉄道、大正4年)、市の南部と新宿を結ぶ西武新宿線(西武鉄道新宿線、昭和2年)が開通し、市内にはそれぞれ2つずつの駅が開設されました。

写真:保谷駅前初荷の風景(昭和5年)

保谷駅前初荷の風景(昭和5年)

 昭和20年頃
 昭和14年頃には、保谷の周辺に中島飛行機(株)をはじめとした工場などが進出し、これら従業員の住宅地として保谷村は栄え、人口の増加、産業の発展に伴い、昭和15年11月10日に町制を施行し、保谷町が誕生しました。当時の人口は10,052人(1,528世帯)でした。

写真:田無町駅<現在ひばりヶ丘駅>(昭和30年)

田無町駅<現在ひばりヶ丘駅>(昭和30年)

 昭和41年頃
 戦後は都心から至近距離に位置する関係から、住宅として発展し、都営住宅(昭和22年)、柳沢、東伏見公団住宅(昭和33年)、ひばりが丘公団住宅(昭和34年)が建設され人口も増大し、昭和42年には市制が施行されました。この当時の人口は77,169人(24,159世帯)でした。
 昭和43年頃
 折りからの高度成長期のなかで、人口は昭和45年まで急増したが、その後は増加率も低くなり、近年の人口の伸びは横ばいとなりました。
 合併直前まで
 平成10年5月には、市民の文化活動の推進、創造をめざし、保谷こもれびホールが開設され、平成11年4月には、市民に健康と災害に強いまちづくりをめざし、合築による保健福祉総合センターが建設されました。これにより、市役所周辺は、利便性のよいゾーンヘとさまがわりしました。平成12年4月には、ひばりヶ丘駅北口に立体式で300台を収容できる有料自転車駐車場をオープンしました。また、6月には、介護保険制度への対応として要介護認定を受けた市民が介護や入浴、食事のサービスを受けられる保谷市高齢者センター「きらら」を開設しました。9月には、保谷駅北口に自転車駐車場を半地下に、公園を地上部分に整備した「あらやしき自転車駐車場}と「あらやしき公園」をオープンしました。
 そして平成13年1月21日、田無市と合併し西東京市として、さらに住みやすいまちづくりを進めて行きます。

写真:保谷こもれびホール(現在) 

保谷こもれびホール(現在)

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