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市のおいたち・地名の由来(田無版)

ページ番号 987-766-032

最終更新日 2006年1月23日

田無の歴史 おいたち

 田無発祥の地は、年代は明らかではありませんが、水の便に恵まれていた谷戸地域であろうと推定されています。
 かつて、この地には、稲荷社や白山社、弁天社、田無山総持寺の前身である西光寺がありました。田無神社は尉殿権現社として宮山(現在の市立田無第二中学校敷地内)に建立されていました。
 確かな記録としては、小田原城に拠点をおいた後北条家の文献「小田原衆所領役帳」の中に「田無」の名がみられ、これにより室町時代の田無は、戦国大名の支配下にあったということがわかります。
 慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸幕府を開いたころの田無は、幕府の天領(直轄地)と旗本知行地が入り組んでいましたが、後に、代官のもとで名主によっておさめられました。
 元禄3年(1690年)の検地をみると、田無村では、すでに930石もの生産を上げるところまで開発されていたことがわかります。
 明治元年(1868年)、江戸幕府の崩壊により旧支配体制が廃止され、田無村は韮山県の管轄となりました。明治2年(1869年)、品川県に編入されたのち、明治4年(1871年)には入間県、明治5年(1872年)には神奈川県の管轄に移されました。そして、明治11年(1878年)に郡区町村編制法が制定され、明治12年(1879年)に田無村から田無町となりました。
 明治26年(1893年)、田無町は神奈川県から東京府に編入されました。当時、三多摩(北多摩、南多摩、西多摩)は、田無町、八王子町、調布町、青梅町、日野町、府中町、五日市町の7町と、三鷹村、武蔵野村、立川村など84村でした。
 昭和18年(1943年)に都制が施行され、東京都北多摩郡田無町となりました。
 昭和42年(1967年)1月1日に市制が施行され、東京都で16番目の市「田無市」が誕生しました。

地名の由来

田無の語源については様々な説がありますが、定説は得られていません。文字どおりこの地域一帯が「田のない」ところであり、その核心地域として「田無」の名称が残ったと考えるのが、もっとも一般 的な解釈です。また、生活の源泉である湧水の流れが浅い階段状の「棚瀬」になっていたからとする異説もありますが、そうした可能性は少なく、この説を採用するのことは難しいでしょう。
 なお、古村一帯に水田を開くところから、いわゆる「田を成す」ことが、「たなし」になったとする説や、かつてこの村は年貢の収奪がとくに激しく、種籾すらも取られてしまったため、「種なし」の村と呼ばれ、それが「田無」に変化したという民間伝承がありますが、これらはいずれも史実上の根拠は明らかではありません

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