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年表(田無版)

ページ番号 583-139-415

最終更新日 2006年1月23日

 田無は江戸時代青梅街道の宿場町、そして北多摩地区の人々の生活を支える商業の拠点として栄えてきた、古い歴史を誇るまちです。昭和に入ってから、鉄道の開通、相次ぐ工場の進出などにより活気を帯び、また新宿まで西武新宿線で20分と交通の便にも恵まれ、戦後は公団住宅や都営住宅、民間住宅の建設が盛んに行なわれました。
 都市としての条件が整った昭和42年1月1日に市制施行、東京で16番目、全国で563番目の市となりました。当時の人口は52,284人でしたが、平成13年1月1日の人口は77,796人となっています。
 明治13年頃
 江戸幕府が崩壊し、明治新政府のもとで、田無村は明治元年に韮山県に属し、明治2年に品川県、明治5年に神奈川県に編入されました。
 明治11年の郡区町村編成法の施行により北多摩郡の所管となった田無村は明治12年に田無村を田無町と改称しました。明治22年市町村制施行により、戸長役場を田無町役場としました。
 明治26年に三多摩の東京府編入により、田無町も神奈川県から東京府に移管されました。

写真:境新道を走る駅馬車

境新道を走る駅馬車(大正初期)

 昭和2年頃
 昭和2年に西武新宿線東村山一高田馬場間が開通し、田無駅が現在より50m程東にできました。駅が現在の場所に移転し、橋上駅になったのは昭和37年です。
 甲武鉄道(現JR中央線)の開通(明治22年)以来、田無一武蔵境間を往復してきた乗合馬車がバスに変わるのも昭和初期です。
 昭和4年に公立昭和病院が完成し、翌5年には東大農場の田無移転が始まりました。

青梅街道(昭和初期)

青梅街道(昭和初期)

 昭和10年頃
昭和10年代には、大日本時計(現シチズン時計)、中島航空金属(現住友重機)、三共、豊和重工(現石川島播磨)の社宅建設により、田無の人口増加が始まりました。
 昭和41年頃
 昭和30年代に高度経済成長期を迎え近郊都市への人口集中がますます顕著になりました。田無町も昭和40年までに都営住宅が26か所建設されるなど、宅地開発が急速に進むことになります。ベッドタウン化と共に、生活環境整備が急務となり、昭和38年に町営水道事業が実施され、39年から下水道事業計画に着手しました。
 柳泉園組合が結成され、36年にごみ焼却炉、40年にし尿処理場完成と、ごみ、し尿処理問題もこの時期に大きな進展を見せています。
人口の急増や、まちの基盤整備が始まったことを受けて、昭和42年市制が施行されました。

写真:田無駅(昭和34年)

田無駅(昭和34年)

 合併直前
 長年の課題となっていた田無駅北口再開発事業は、平成8年3月に駅前広場の完成をもって完了しました。さらに、平成11年中には田無駅駅舎の建替えも終了し、これにより田無市の表玄関は大きく生まれ変わりました。また平成11年7月に、市の文化向上を目指し、多目的文化施設「コール田無」を開設しました。平成12年10月には、田無駅北口に約437台を収容できる自転車駐車をオープン。合併後の平成13年春には、「谷戸せせらぎ公園」を整備します。

 社会環境が大きく変動する中、田無市も新しい時代に対応したまちづくりをすべく、平成13年1月21日をもって保谷市と合併し、新たに西東京市としてスタートします。

写真:田無駅北口(現在) 

田無駅北口(現在)

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