西東京市のお盆について
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最終更新日 2011年7月28日
祖霊や死者の霊を迎える行事とされるお盆について、西東京市(田無・保谷)ではいつ・どのように行っているかというお問い合わせに、図書館が所蔵している、合併前の田無市と保谷市それぞれの関連資料からお答えします。
質問
西東京市では、お盆はいつ・どのように行われていますか
お答えします
田無のお盆は、「勝手盆」といって、7月30日から8月1日までとなっています。新暦の盆も旧暦の盆も養蚕で忙しい農家が、やっと休みを取れるこの時期をお盆にしました。
第二次世界大戦後、1日ずらして7月31日から8月2日までとした地区もあります。
かつては松明を作りお墓までお盆様を迎えに行きましたが、その後迎え火はお線香を持って家の近くまで迎えに行き、送るときも同じようにしています。 「盆の迎えは早く、送りは遅く」ということで、キュウリの馬で早く迎え、ナスの牛でゆっくり送るように、キュウリとナスでかざりを作るしきたりは、地域を問わず共通しています。
迎えた霊を供養するため仏壇とは別に盆棚を作ります。笹を4本立てて棚を作り、茅で編んだ縄をめぐらしホーズキやカキ、クリなどをぶら下げました。仏壇から位牌や仏具をその棚に移し、施餓鬼にお寺から受けた先祖を祀った掛け軸も吊るしました。白いご飯やおかずに麻幹の箸なども供えました。この3日間、お寺(総持寺)の住職は他のお寺からも人を頼んで各檀家を回り棚経をあげます。田無の盆踊りは周辺地域では最も早く昭和初期頃、総持寺の住職が子どもたちを集めて教えたことが起源ともいわれます。
お盆という行事の形式や日にちも変化して、7月、8月の15日を中心に行う家庭も見られますが、総持寺の盆踊りは昔ながらのお盆の風物詩となっています。
保谷のお盆は地域やチョウバ(村を構成する小集落)によって様々に変化してきました。その理由は田無と同様に、養蚕と畑作物の大根、麦の生産時期やお寺の都合と思われます。
上保谷では、ほとんどが7月13日から15日に行われ、下保谷ではかなり古くから8月13日から15日に行っていた家が多いといわれています。8月1日や9月1日を中心とした朔日盆が行われた時期もありましたが、蚕の暴落で養蚕をやめたり、第二次世界大戦を境に東京の盆(7月盆)に変える気運が起こるなどしてしだいに変わりました。
盆棚は仏壇のある部屋に4本の真竹や孟宗竹を南向きに立てて、位牌などを置くために四斗樽二つを伏せて畳大の戸板を敷き、周りには茅の縄をめぐらしました。四方に掛軸をかけ、陸稲、里芋、ホーズキ、とうもろこしや果物を吊るしたり供えたりしました。仏の供養はまんじゅう、うどん、米飯が朝昼晩と供えられました。
また、無縁仏を祀るための供物を盆棚の下に供えました。これは、田無も同様です。
お盆の期間中、僧侶は檀家の家々を廻りますが、新盆から3~5年までは毎年、少し古い場合は1年おき、2~3年に1回でした。
参考資料(図書館所蔵)
「田無市史 第4巻 民俗編」
「田無のむかし話 その1」
「保谷市史通史編 4 民俗」他
